レイ・クロックの生涯・名言
マクドナルド創業者
項目 | 人物像データ |
---|---|
本名: | レイモンド・アルバート・クロック |
特徴: | 定年目前の52歳からビジネスに奮闘した野心家 |
得意科目: | マーケティング?(独学) |
出身大学: | なし |
大学の専攻科目: | なし |
生い立ち・生涯エピソード
1902年10月5日、イノイリ州オークバークでレイ・クロックは生まれた。
15歳のとき高校を中退し、年齢を偽って第一次世界大戦に赤十字の救急車の運転手になろうと試みる。戦争に便乗してヨーロッパに行きたかったが、コネティカット州に折る頃に戦争が終戦を迎える。
戦争後、食いつなぐためにピアノ弾きのアルバイトを経験した。
1922年にリリチューリップカップ社の紙コップ販売の仕事に就き、販売の腕を磨いた。 この紙コップの販売をしてるとき顧客先のプリンス・マルチミキサーズ社のオーナーに新発明のミキサーを見せられ、このミキサーの販売権を買うことにする。 レイ・クロックはこのミキサー販売を52歳まで続けた。
1954年、レイ・クロックは老後のたくわえもある程度貯まり、そろそろ引退を考えていたときのある日、マクドナルド兄弟が営むハンバーガーレストランから大量のミキサーの注文が入る。 レイ・クロックはこのレストランの商売方法は将来飲食業界に大きな影響を与えるを確信し、現代でいう「フランチャイズ権」を契約した。
レイ・クロックは品質、サービス、清潔さ、価格をさらに向上させるよう努力し、1955年イノイリ州で初店舗をたてる。 続いてフランチャイズの契約者をオーナーにいくつかの店舗を開店させた。 1960年までこのビジネスはなかなか軌道に乗れず、一時は倒産ギリギリにまでなった。
レイ・クロックはこの状況を改善するためレストランの建設用地を買い、フランチャイジー(他のフランチャイズの契約者)に土地を賃貸するという方法を考え出した。 この対策のおかげで徐々に利益を伸ばすことに成功する。後にレイ・クロックはテキサス大学の講演で「私のビジネスはハンバーガーを売ることじゃない、不動産業だよ」とさえ言っている。
1961年、マクドナルド兄弟から270万ドルで会社を買いとることにする。 すぐにレイ・クロックは大規模な広告キャンペーンを実施し、店舗は瞬く間にアメリカ全土、ヨーロッパ、アジア、世界へと進出していった。
1984年他界するが、それまでほとんど贅沢をすることも無くマクドナルドを支え続けた。
名言集・語録
自己を未熟ととらえることができれば、いくつになってもみずみずしさを失わず、成長を続けていくことが出来る。このような姿勢で迎える限り、人生に打ちのめされることはない。
幸運は汗からの配当だ
汗をかけばかくほど、ますます幸運になる
私はマクドナルドを名前以上の存在にしたかった。安定した品質と運営が標準化されたレストランシステムの代名詞にしたかった。
マクドナルドのフランチャイジーになるには、頭脳明晰である必要はなく高校以上の学歴もいらないが、100%のエネルギーと時間を投入する覚悟が何より大切だ。常識を持ち、目標に向かっていく強い信念と、ハードワークを愛せる人間なら誰もが成功し、億万長者になれる。
我々が進歩するためには個人でもチームでもパイオニア精神で前進するしかない。企業システムの中にあるリスクをとらなければならない。これが経済的自由への唯一の道だ。他に道はない。
誰かに幸福を与えることは不可能だ。独立宣言にもあるように、唯一できることは、その人に幸福を追う自由を与えることである。幸福とは約束できるものではない。それは、どれだけ頑張れたか、その人の努力によって得られる、その人次第のものだ。
私のようなタイプは、決して政治化にはなれない。政治家として生きていくためには、自分の信念さえも曲げなければならないことがある。それが私にはできなかった。
何事も小さな仕事に分けてしまえば、特に難しくない。
私の仕事は顧客の利益を伸ばすことで、顧客の利益を奪うことではない。
信じるものがあるなら、徹底的に信じぬけ。そうすれば、失敗は不可能となる。何であろうと絶対に成功する。
諦めずに頑張り通せば、夢は必ずかなう。もちろん、努力もせずに手に入るものではない。好き勝手やればいいというわけではない。リスクへの覚悟が必要だ。ひょっとしたら無一文になるかもしれない。しかし、一度決めたことは絶対に諦めてはいけない。
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