本田宗一郎の生涯・名言

「ホンダ」創業者

常識にとらわれない孤高のエンジニア

項目人物像データ
本名:本田宗一郎(ほんだ そういちろう)
特徴:重要事項に対して完全主義者・反学閥のカリスマ
得意科目:工学(?)
出身大学:なし
大学の専攻科目:なし

生い立ち・生涯エピソード

1906年、静岡県光村明村に生まれた。 父親は鍛冶職人で、本田宗一郎も小さい頃からよく手伝いをしていた。

15歳のとき、仕事を探すために東京に出る。 なんとか自動車の修理工場の見習い工としての仕事を見つけた。 最初の半年近くは修理工場の主人の子供の子守が主な仕事だった。 6年間そこで自動車の修理工として働いた。

22歳になった本田宗一郎は故郷に帰り、のれんわけという形で自ら自動車の修理工場を始めることにする。

本田宗一郎の情熱は自動車レースに出場するまでになっていた。 1935年に結婚してからもレースはやめず、1936年、平均時速の新記録を出すことに成功するが、レース中に事故で何ヶ所も骨折してしまう。

事故にあってからも自動車への情熱は冷めず、東海精機重工業株式会社を設立し事業を順調に拡大。

1937年からエンジンに使われたりする「ピストリング」の製造を手がけた。 ピストリングの研究をはじめてから、本田宗一郎は自分がまともに教育を受けておらず、学問的壁に阻まれているということを実感する。 このことがきっかけで同年1937年に浜松高等工業学校に入学する。 しかし、学校生活ではピストリングに関係の無い授業を受けなければならず、全く興味がわかなかった。 本田宗一郎はノートも全く取らず、試験も受けなかったという。 本田宗一郎は卒業証書は映画館の入場券よりも価値が無いといって卒業証書をもらわず、この学校を出ることになる。

1939年にもともとの自動車修理工場を従業員に譲渡し、自分は東海精機重工業の経営に専念するようになる。

1942年からトヨタに出資してもらうようになる。 このときから経営をトヨタから招き入れた石田退三に任せ、本田宗一郎は専務に退いた。 戦争が終わった翌年、1946年、本田宗一郎は本田技研研究所を設立し原付自転車や自動2輪車の研究などの業務を始めた。

1948年、本田宗一郎は東海精機重工業をトヨタに売却する。 その資金で引退を考えていた。 しかし、情熱の冷めぬまま引退などできるはずも無く、本田技研研究所を本田技研工業株式会社とし、従業員20人で二輪車の研究を始めた。 本田技研工業がはじまってから、学問嫌いな本田宗一郎のもとには保守的な企業に断られた優秀な学生たちが集まり、積極的に活躍した。本田宗一郎の熱い情熱はこれからも受け継がれていくだろう。

東海精機重工業で経営を任されていた石田退三がこのとき本田に藤沢武夫という人物を紹介する。 藤沢武夫と本田宗一郎は戦後の日本での産業戦略について意気投合し、本田は藤沢にマーケティング、販売等を任せるようになっていく。 藤沢武夫に経営面を任せるようになってからの本田宗一郎は技術面の開発に今まで以上に積極的に活動できるようになった。 製品の設計のため自ら世界中を市場調査に行き、オートバイレースにも参加しそのレースでのことを記録し、研究し、製品の能力向上を完全になるまで続けた。 本田のオートバイは世界で最高のレース用オートバイという認知度、ブランド力、技術を持つようになった。 1955年には二輪車生産台数日本一になった。

1959年、最新モデル「スーパーカブ」を大量生産するために世界最大のオートバイ工場を鈴鹿市に建設。 このスーパーカブは向かうところ敵なしといえるほど売れた。

同1959年にはアメリカに販売会社を設立し初の海外進出を果たした。 アメリカでのホンダは既存の流通業者に頼らず、顧客のいそうな地域ならどこでも売り込みに出かけるという積極的な広告キャンペーンをおこなった。 製品の品質は世界トップクラスだったことは実証済みだったため、ホンダのオートバイはアメリカ国内メーカーのオートバイ月間総販売台数5000台未満という数字を、ホンダだけで2800台近く上回った。 この勢いはアメリカだけにとどまらず、1961年、西ドイツに「ヨーロッパ・ホンダ」、1965年イギリスに販売拠点となる「ホンダUK」を設立する。

1962年から四輪車への進出を進めていき、シビック、アコードなどの製品がこの後続々と発売され世界中で大ヒットする。

公害問題などにもいち早く取り組み、ロボットの研究にも手を広げていった。

1991年に本田宗一郎の人生は幕を閉じることになるが、現在も世界のホンダは進歩し続けている。

名言集・語録

失敗を恐れてはいけない、恐れなくてはいけないのは、失敗を恐れて何もしないことだ。

卒業証書なんかに興味はありませんでしたよ。だって何の役にも立ちゃしないんだから。

僕の成績はビリだったから、卒業試験も受けなかった。校長は私を呼びつけて退学だという。だから言ってやった、卒業証書なんかほしくありません。映画館の入場券のほうがよっぽど値打ちがあるってね。入場券は映画館に入れる保証になるのに、卒業証書はなんの保証にもならないんだから。

成功したいと夢見る人はいっぱいいますよ。僕の場合、成功なんてものは失敗と反省を何度も何度も繰り返したあげくに、やっとつかむものです。実際、成功は仕事の1%。これは失敗に終わる残りの99%の仕事があって、はじめてたどりつけるものなのです。

企業といっても人間が主体です。人間を抜いたら何もない。

企業にもフシがある。儲からんときが一つのフシになる。このフシの時期が大切なんだ。

機械に使われるな、機械を使う人間になれ。

関連書籍

本田宗一郎夢を力に―私の履歴書
著:本田宗一郎/発売日2001/07/全269ページ

やりたいことをやれ
著:本田宗一郎/発売日2005/09/全271ページ

俺の考え (新潮文庫)
著:本田宗一郎/発売日1996/4/25/全214ページ

人間の達人 本田宗一郎
著:伊丹敬之/発売日2012/6/8/全336ページ



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