リー・アイアコッカの生涯・名言

自動車業界を変えた男

引っ込み思案なセールスマン

項目人物像データ
本名:リー・アイアコッカ
特徴:倹約家・引っ込み思案・豊富な経験
得意科目:自動車製造(?)セールス(?)
出身大学:リーハイ大学
大学の専攻科目:機械工学・管理工学

リー・アイアコッカの生涯

少年期~青年期

1924年10月15日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州アレンタウンで生まれた。
父親(家族)はイタリアから移民してきて、このアメリカの地でホットドッグを売る仕事をしていた。
生まれたときは裕福な家庭だったが、1930年ごろの大恐慌の影響で無一文になってしまう。
大恐慌が終わった後、なんとか家計は持ち直し、リー・アイアコッカは名門大学リーハイ大学に入学できた。
この大学では機械工学と管理工学を学んでいる。

第二次世界大戦が始まるとリー・アイアコッカは入隊を志願する。
しかし、若年性関節リウマチとみられる症状があったため徴兵されなかった。
この期間中にプリンストン大学大学院に進み、修士号を取得するまで先の勉学に励んだ。

フォードに入社

第二次世界大戦が終わった翌1946年からトレーニー(職業訓練研修生)としてフォード(ヘンリー・フォードの章を参照してください)の工場で自動車製造のあらゆる工程を学んだ。
本来ならこの訓練を終えた後、エンジニアリング関連の仕事に就くところだが、リーアイアコッカは違った。
彼はペンシルバニア州のフォードの販売部門で働くことにしたのだ。
これまでセールスマンとしての勉学は皆無で性格は引っ込み思案だったが、訓練と経験を積んで成績をメキメキと上げていった。

フォードでの昇進/分割方式の支払い方法

1949年にはセールスマネジャーに昇進した。
1950年代初期フォードは人員削減に乗り出すが何とかリー・アイアコッカは生き残り、その勢いで1953年にはフィラデルフィア地区のアシスタントマネジャーに昇進した。
1956年にフォード社が販売不振に陥ったときのこと、リー・アイアコッカは新しい自動車ローンの支払いプランを打ち出した。
その支払いプランは頭金に20%支払い残金を月々56ドル支払うというものだった。
このプランは「56ドルで買える56年型車」というキャッチフレーズで、アメリカ全土で採用された。
この功績がたたえられリー・アイアコッカは1960年11月に世界第二位の自動車会社であるフォードのゼネラルマネジャーになった。

マスタングを発表

リー・アイアコッカはこの頃から、ベビーブーマー世代向けの中型スポーツカー「マスタング」の開発責任者となった。
そしてこの新型車を生産するために当初予定されていたニューモデル「カーディナル」の導入を中止した。
この「カーディナル」の導入中止には3500ドルもの損失をこうむることになったが、「マスタング」の販売実績は1964年導入初年度、販売新記録となる41万8812台、利益11億ドルという数字をたたき出したことで最終的には完全にリー・アイアコッカの手腕を世界にしらしめる結果となった。

1965年1月にはフォード社が誇る「マーキュリー」、「リンカーン」部門の副社長に昇格。
1970年1月にはフォード帝国の社長に就任した。

フォードの社長として

社長としてのリー・アイアコッカはオイルショックや日本車の猛威などに押される国内外の販売を、「マスタング」の国内販売網強化、新型前輪駆動車「フエスタ」の導入、不採算事業の売却などの政策によりうまく切り抜けるという経営者としての才を発揮しフォード社を牽引した。

しかし、ヘンリー・フォード2世の権力が事実上強くなっており、経営方針が合わず1978年にリー・アイアコッカは54歳という年齢でフォード社を追いやられるように解雇されてしまう。

クライスラーへの転身

リー・アイアコッカは引退することもできた。
しかし、数ヶ月後にはクライスラー社のジョン・リカルド会長からのラブコールにのり入社、1979年9月会長兼CEOになった。
リー・アイアコッカが入社したときは、クライスラーは不振だった。
ここでリー・アイアコッカはすぐに状況判断をし、自分自身の給与を1ドルに引き下げ、コスト削減、過剰在庫の一掃、レンタカー企業との提携、実質的なレイオフを実施した。
さらには、連邦政府に債務保証の申請を出し15億ドルの資金調達に成功する。
即刻、攻めに転じ新型の前輪駆動小型車「Kカー」の開発に乗り出した。
1981年、この「Kカー」は大ヒットとなり1983年にはクライスラーは9億2500万ドルもの経常利益をたたき出すほどに復興された。
クライスラーとしてはこのほかにも、アメリカンモーターズ社を買収、「ジープ」の導入などを推し進め更なる発展に貢献した。

アイアコッカ伝説

1982年の5月当時のドナルド・レーガン大統領にニューヨークの自由の女神の修復基金の代表を務めるよう要請された。(この後、大統領選に出馬するのではないかという噂までたった。)
会社が復興したころからリー・アイアコッカは少々独裁的な買収などを始めたため社内から批判の声を浴びるようになると、1992年にリー・アイアコッカはクライスラーを退職。
新たにEVグローバルモーター社を立ち上げ電気自転車のえ「eバイク」の販売を行っている。

リー・アイアコッカ名言

  • 経営とは、人々をやる気にさせること以外の何ものでもない。
  • 利益しか生まないビジネスは、むなしいビジネスである。
  • 最終的には、どんな会社の活動も三つの言葉に凝縮できる。それは、人間と製品と利益だ。いいチームなしには製品や利益の向上は望めない。
  • 人を見抜くのがうまくても、ちょっと会っただけでは絶対に見抜けない資質がふたつある。ひとつはその人物が怠け者であるかどうか、ふたつ目は決断力があるかどうか。人間の腹の中に燃える炎と決断を迫られたときの機転とは、どんな心理テストによっても計算できない。
  • 商品が良ければ、優れたマーケッターである必要はない。
  • リーダーシップとは模範を示すことである。

リー・アイアコッカ関連書籍など


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