ロックフェラーの生涯・名言
スタンダードオイル社創業者
項目 | 人物像データ |
---|---|
本名: | ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア |
特徴: | 優秀な人材を雇い入れるプロ・慈善家 |
得意科目: | 会計 |
出身大学: | なし(最終学歴はフォルサム商業学校) |
大学の専攻科目: | なし(商業) |
国民非難を浴びる半面、偉大な慈善事業をすすめた孤高の石油王
大富豪の代名詞とされるジョン・ロックフェラー。
彼が石油会社を創っていなければアメリカの電化、自動車の大量生産の姿は違ったものになっていたでしょう。
スタンダードオイル社の設立のおかげでアメリカの石油産業が困難な時期を何度も乗り切れたといっても過言ではないからです。
そんな彼の生涯を彼の優れた能力が「会計」と「優秀な人材を雇い入れる」ということだったという点をご理解いただいた上で読んでほしいと思います。
ジョン・ロックフェラーの生涯
企業家の片鱗を覗かせた幼少期
1839年、ニューヨーク州ティオガ部リッチフォードでウィリアム・エーブリー・ロックフェラーと妻イライザ・デイヴィソンの間に生まれる。
6人兄弟の2番目で長男だった。
両親は農業経営者だった(一部では怪しい健康食品を売り歩く行商人だったといわれていることもある)
幼い頃はとりわけて学業は優秀ではなかったがビジネスに対する鋭い嗅覚をもっていた。 幼いながら、七面鳥を育て、それを売って得た利益を金利7%で貸し付けていたといわれている。
14歳の頃、一家でオハイオ州クリーブランドに移住。
高校では商業を学んだ。
就職
16歳のとき農業物配送業者で雑用係兼簿記見習いの仕事に就く。最初の14週間は1セントたりとも支給されなかった。14週あけたところで50ドル受け取ることができ、それ以降は月給25ドルという生活。
同社で3年間働き続けたとき、年間800ドルの給料を要求するも断られ、同社を辞める。
最初の起業
辞めるまでの3年間、簿記見習いとして企業経営を観察し続けた経験を活かし、すぐさまモリス・B・クラークとパートナーを組んで自分の農場(農作物委託販売業)を経営し始めた。ロックフェラーはこのとき19歳。
元手は父から1000ドル(プラス10%の利子)を借りた。
地元の農家をくまなく訪問し、自分を売り込み、初年度から年間で50万ドルの売り上げを出した
(会社を興して初年度から黒字にもっていくというのはものすごいこと。)
石油の波に乗れ
1862年、石油という新しい燃料の可能性を感じ農業経営をしながらも石油業界に乗り出すことを決意。
すぐさまアンドリューズ・クラーク&カンパニーという石油精製会社を設立する。
次第に石油業界にのめりこんでいき、自身の持つ農作物配送業者の株式をクラークに売却。
逆にクラークの持つ石油会社の株式を購入→アンドリュー・クラーク&カンパニーをロックフェラー&アンドリュー社に設立し直す。
同年、第二の製油所スタンダード・ワークスを設立し弟のウィリアム・ロックフェラーをそこの社長に就任させた。
1867年にはスタンダード・ワークスをロックフェラー&アンドリュー社に吸収し、ヘンりー・M・フラゲーを迎え入れ、スタンダードオイル社を設立。自ら社長に就任。
同社は地元の競合企業を吸収合併しどんどん大きくなった
もみくちゃな石油市場を勝ち抜け
この時期、石油事業に乗り出す人が急増し、価格競争が悪化し石油価格の落ち込みが激しくなり多くの企業が倒産した。
この危機にジョン・D・ロックフェラーは[JPモルガン]のコンビネーション戦略を応用し、リスク分散させるため地元だけでなくアメリカ国内いたるところで競合会社を買収するという作戦に出てアメリカ全土に轟く石油会社になるというビジョンを掲げた。
見る見るうちにスタンダードオイル社は買収をすすめ、1879年アメリカの石油精製量の90%を牛耳るほどになった。
規模の大きさに訴訟をおこされる
1897年、社長の職に就きながらも経営から事実上引退をする
これまでの流れに乗って1972年までにあらゆる企業がスタンダードオイル・トラストという傘下に入ることになる。
(※トラスト:独占禁止法により規定される一形態。)
このトラストは多くの国民から独占的支配という批判を浴びた。
そしてついには1890年オハイオ州司法長官にトラストの解散を求め、訴訟を起こされる。
この訴訟にスタンダードオイル・トラストは負ける。
しかし、公判の結果、トラストは解散するも、ニュージャージーの法律に基づき、親会社が子会社を所有するという形でスタンダードオイルカンパニーとして存続した。
大富豪の称号
1900年この会社はアメリカ石油産業の4分の3を支配した。
1901年ジョン・D・ロックフェラーの資産は約9億ドルとみられ当時、世界一の裕福な人物になったとされている。
1904年「スタンダードオイルの歴史」が出版され、反トラスト熱が高まる。
慈善活動
1910年からジョン・D・ロックフェラーは慈善活動に没頭するようになる。
1911年スタンダードオイル社の支配がアメリカ政府(アメリカ最高裁判所)によって反トラスト法違反とされ38の個別会社として切り離される。
この事件をきにジョン・D・ロックフェラーは会社をさる。
晩年は莫大な資産を寄付活動・慈善事業に充てた。
1937年5月23日、オークランドの自邸で亡くなる。(一部ではフロリダ州・オルモンドビーチの浜辺で死んだとされている)
享年97歳。ほとんどの資産は寄付にまわされており、残った資産は2641万837ドルだった。
主な寄付・慈善活動
- ロックフェラー財団設立
- 3500万ドル以上の資金をシカゴ大学に寄付
- ロックフェラー・インスティテゥート・フォー・メディカルリサーチ設立
- ロックフェラー・サニタリーコミッションとしてアメリカ南部一帯の鉤虫(こうちゅう)の撲滅に貢献
※鉤虫(こうちゅう):寄生虫の一種。腸・肝臓・皮膚組織に寄生。今ではほとんど見られないが子どもに寄生する恐れがある。
ジョン・ロックフェラーにまつわる逸話
- ディズニーのキャラクターで知られるドナルド・ダックの叔父スクルージ。彼のライバル、ジョン・D・ロッカー・ダックはロックフェラーの慈善事業にちなんで命名された。ロッカー・ダックは通りにいる人たちに光る新しい硬貨を分け与える習慣を持っている。
- 口にするのはパンと牛乳だけ
- 猛烈に、しかも長時間働く超人的な能力の持ち主
- 無慈悲な営業戦略
- 社会貢献事業競争と題され鉄鋼王[アンドリュー・カーネギー]との慈善事業に当てた金額を並べられた
- トラストの訴訟を起こされ負けたストレスによりロックフェラーの髪、眉はすべて抜け落ち、神経衰弱状態になったという評判が立った。
ジョン・D・ロックフェラー名言
- 私はいかなる失敗もチャンスに変えるようつねに努力してきた
- 世の中の人は私がとてつもない働き者で、昼夜の区別も、夏冬の区別もなくいつも仕事をしていると思い込んでしまっている―本当のところは、30代半ばをすぎてからは怠け者だった。
- 私は始めて仕事に就いたときから、自分の時間と頭をすべて仕事漬けにするようなことはしていない
- 組織を活かすのは人間だ。機械でもなければ工場でもない(口癖)
- いかなる種類の成功にとっても粘り強さほど大切なものはない。粘り強ささえあれば、ほぼ何でも乗り越えることができる
- もし、あなたが成功したいのなら、踏みならされ受け入れられた成功の道を行くのではなく、新たな道を切り開きなさい。
- 事業の成功には奇跡はない。永遠の成功は自分を信ずることだ
- 事業は自分ためより人のためにすることで出発せよ
- よし、金銭の奴隷になるのはもうやめた。ひとつ、金銭を奴隷に使ってやろう
- 金を手にして得意がるのは愚か者だけだ
- 成功の秘訣は、あたりまえのことを、特別上手にすることだ。
- 10セントを大切にしない心が、君をBOYのままにしているのだよ
ジョン・ロックフェラー関連書籍など
ライバル企業は潰せ―石油王ロックフェラー (ザ・アメリカ 勝者の歴史)
ジョン・D・ロックフェラーの半生が短くまとめられていて読みやすい作品になっています。
金払いがいい半面、お金の細かさを持ち合わせているロックフェラーの性格が見て取れるでしょう。
非難を浴びたときどんなストレスを抱えていたかという苦悩もよくわかります。
ロックフェラー回顧録
アメリカ史上最高の一族によって書かれた貴重な自叙伝―
一族の内部を包み隠さず明かした書となっています。
海外ではベストセラーとなっており、600ページを超える単行本でかなり深いところまでロックフェラーのことがわかります。
Disney's クリスマス・キャロル [DVD]
ジョン・D・ロックフェラーが元になったともいわれるディズニーのキャラクター「ジョン・D・ロッカーダック」のライバル→金に目がないスクルージが主人公の映画です。
スクルージ役にコメディ映画の鉄板俳優ジム・キャリーを迎え、映像はもちろん、人間が生きていくうえで体験するお金と愛情の重要な葛藤を描いた内容のすばらしい作品です。