ロバート・ウッドラフの人生・名言

コカ・コーラ社CEO

コカ・コーラを世界へ広めた男

項目人物像データ
本名:ロバート・ウィンシップ・ウッドラフ
特徴:サポーター・負けん気の強さ・学業成績不振
得意科目:経営
出身大学:エモリー大学
大学の専攻科目:不明

ロバート・ウッドラフの人生

大物の片鱗を除かせた学生時代

1889年12月6日、アメリカ合衆国ジョージア州の中規模商工業都市コロンバスで生まれた。
父はジョージア信託会社の社長をしていた。
ロバート・ウィンシップ・ウッドラフは最初の教育としてジョージア陸軍士官学校に入学させられた。
決して成績はよいほうではなかったが、学校側からは一目置かれる存在だった。
当時、学校の経済状態はよくなく、アトランタナショナル銀行からの抵当権の行使を受けそうになっていたのだが、この事を知った、ロバート・ウィンシップ・ウッドラフがアトランタ銀行の副社長に会いに行き、脅しや有名人の名をちらつかせ、その行使を思いとどまらせたことがあったからだった。
陸軍士官学校を卒業後、エモリー大学に進学。
この時期にマネジャーとして成功するためのコツを身につけたといわれている。
大学時代、ロバート・ウィンシップ・ウッドラフは金を払って他の学生に宿題を完全に任せていたのだ。
これは彼に言わせれば「自分よりできるやつに任せられるときには、迷わず任せることだ」という理念に結びつくものがある。

父への反発心と出世街道

大学を卒業後、父から仕事の申し出を請けるが、これを拒絶して消火器の機械工として工場で労働者として働く道を選んだ。
しかし、仕事面では特に問題は起こさなかったにもかかわらず、解雇されてしまう。
この後も何度か職を変えるが、解雇が続くことになる。
あるとき、ロバート・ウィンシップ・ウッドラフの昇進が保留されたとき、今回のことや今までの解雇に父親が絡んでいることを突き止める。
父親は、息子に家が金持ちだからといっても楽に仕事はできないゾということをわからせるために邪魔をしていたのだった。
怒ったロバート・ウィンシップ・ウッドラフは父親の元では決して働かないことを心に決め、ホワイトモーター社でトラックの販売員になることにする。
このころ、世界は第一次世界大戦に突入するのだが、ロバート・ウィンシップ・ウッドラフは自社にしかできないトラック設計を促進させ、たちまち出世街道を駆け巡り、副社長になり、ゼネラルマネジャーになった。

コカ・コーラをきっかけに父と和解

1919年、父が投資家グループをまとめあげコカ・コーラの株を買収する。
この買収を期に、父はロバート・ウィンシップ・ウッドラフに自分たちの投資化グループに参加しないかと声をかける。
ロバート・ウィンシップ・ウッドラフは参加することを伝え、1株40ドルで株式市場で売られているコカ・コーラ株を1株5ドルでかなりの量を買い取った。
それからしばらくして1923年のこと、コカ・コーラが財政難で傾いたときのこと、ロバート・ウィンシップ・ウッドラフは父と和解し、33歳にしてコカ・コーラの経営者に就任した。
このとき、ホワイトモーター時代の収入と比べると収入は激減するにもかかわらず、この職を選んでいる。
また、スタンダードオイル社からは25万ドルで社長にならないか、というオファーもあったという。
(彼自身は自ら保有するコカ・コーラ株の株価を上げるため、自ら経営者になったと語っている。)

コカ・コーラのイメージ戦略

ロバート・ウィンシップ・ウッドラフは顧客のニーズに応えるすばらしいマーケティングの才を発揮した。
コカ・コーラの起源はコカ草(コカインの葉)を使用した薬で、改良が重ねられ炭酸飲料になってきているという歴史があったため、悪いイメージを持つ人も少なくなかった。
ロバート・ウィンシップ・ウッドラフは広告によるマーケティング戦略を打ち出し、明るいイメージだけが想起されるよう悪いイメージを一掃した。

徹底した品質改善

イメージだけでなく製品の品質の向上も当然のように徹底した。
工場では従業員全員にユニフォームを着用させ、品質基準を新たに作り、衛生管理と品質管理を徹底させた。
また、「ファウンテン・トレーニングスクール」を設立し、ソーダ・ファウンテン(ドリンクバーの装置のこと)を設置してある店に適切な品質の知識を伝えれるようにソーダ・ファウンテンの保守整備士を徹底的に教育した。
さらに、業務に関するマニュアルも作成している。

世界へ羽ばたいたコカ・コーラ

なんといっても海外への目を向けたことがウッドラフの最大の功績といえるだろう。
1900年、まだ父たちの投資家グループに買収される前のコカ・コーラ社はイギリスからの注文を受けていた。そしてキューバからフィリピンにかけて工場をつくり事業を拡大しようとしていたのだった。
しかしこのときは海外進出事業拡大に注力する指揮者がおらず工場が建てられただけだった。
この工場に目をつけたロバート・ウィンシップ・ウッドラフは1926年から海外部門を創設する。
ロバート・ウィンシップ・ウッドラフは海外部門を徹底的に指揮し、1928年のアムステルダムオリンピックの会場でコカ・コーラを販売する権利をこぎつける。
この企画は大成功し、地元に工場を作り、地元の人を雇用するといった完全な世界進出を果たす。
1930年にはドイツ支部の売り上げがうなぎのぼりに上昇し、ベルリンオリンピックでもコカ・コーラの提供を果たした。
これらの活躍によって海外部門の支部は一人前の子会社化し、世界にコカ・コーラの名をとどろかせた。

第二次世界大戦をもチャンスに変える思考

1939年にロバート・ウィンシップ・ウッドラフは社に残りながら社長の座を退く。
社長の座を退いたものの、第二次世界大戦に突入使用という時期に新たな策を打ち出した。
それは、「軍服を着ている兵士には例外なく、コカ・コーラのボトルを5セントで販売する。その人がどこにいても、そして会社にどれだけの負担がかかっても、5セントだ。」といったプランだった。
戦争中、コカ・コーラ社は原液の輸入制限で苦しむことになるが、このプランを貫き通し、世界中で圧倒的な人気を勝ち取った。
戦後、他社コーラメーカーも続々と安価路線で仕掛けてきているがコカ・コーラも負けじと力を注ぎ、現代でも不動の地位を確立している。
1965年にウッドラフはコカ・コーラ社を引退。
引退後は表立っていないが、幾人ものその後の時代で活躍するCEOたちを育てている。
1985年3月7日に他界。享年95歳。

・ロバート・ウッドラフ名言集

  • The Most Important Words(最も重要な言葉)

    6 words “I admit I made a mistake”(6単語:私が間違ったことを認めます)

    5 words “You did a good job”(5単語:君はいい仕事をしたね)

    4 words “What is your opinion?”(4単語:あなたのご意見は?)

    3 words “If you please ”(3単語:どうぞ)

    2 words “Thank you ”(2単語:ありがとう)

    1 word “We”(1単語:我々)

    ―コカ・コーラ社の社長室に飾られているウッドラフの言葉(日系ビジネスオンラインより引用)
  • 自分よりできるやつに任せられるときには、迷わず任せることだ。
  • 軍服を着ている兵士には例外なく、コカ・コーラのボトルを5セントで販売する。その人がどこにいても、そして会社にどれだけの負担がかかっても、5セントだ。

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