デイヴィッド・オグルヴィの生涯・名言
オグルヴィ・アンド・メイザー創業者
項目 | 人物像データ |
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本名: | デイヴィッド・マッケンジー・オグルヴィ |
特徴: | 高学歴・豊かな社交性・強い目的意識の持ち主 |
得意科目: | マーケティング(?) |
出身大学: | オックスフォード大学クライストチャーチカレッジ |
大学の専攻科目: | 歴史 |
デビッド・オグルビーの生涯
1911年6月23日、イギリスで生まれる。
父親は株式ブローカーだった。
名門私立学校フェッツスクールを出たあと奨学金でオックスフォード大学に進学。 専攻は歴史だった。
大学卒業後、冒険を求めフランスのパリへ行く。 (フランス)マジェスティックホテルの厨房で働いた。 何年かこの仕事をしているうちにフランスの生活にも飽きてきてイギリスに戻ることを決める。
イギリスに戻ったデビッド・オグルビーは新しいタイプの調理用オーブン「アガ」の販売をする仕事に就く。 この販売での仕事では成績がよく販売部隊用のマニュアルを書くよう要請されるまでになる。
デビッド・オグルビーはこのマニュアルが完成したときロンドンの広告代理店メイザー・アンド・クラウザー社で働く弟に出来を見てもらおうと、弟にこのマニュアルを送った。 このマニュアルはとても魅力的な表現が盛り込まれていて高い評価を得た。 これがきっかけでオグルビーは、メイザー・アンド・クラウザー社に引き抜かれることになる。(研修生として)
この頃からデビッド・オグルビーは広告理論について探求し始める。 1938年「ロンドンでの社交的生活を満喫した」といい、仕事を辞め、次なる冒険を求めアメリカに行く。 オグルビーはこの地を気に入り、アメリカの商業的世論調査で有名なギャラップ社で働くことになる。 ギャラップ社の創設者ジョージ・ギャラップは心理学、統計学のスペシャリストだった。 デビッド・オグルビーは彼の元で簿給だが何ものにも変えがたい知識と経験を得た。
第二次世界大戦が始まるとデビッド・オグルビーはワシントンにあるイギリスの諜報機関で働いた。
戦争が終わったのをきっかけに土地を購入して農場を営みタバコ産業をしようと決める。 しかし、この農場は短期間で失敗し、あちこちで仕事を探し回ることになる。
37歳になるころにアメリカの地で、自分の広告会社を設立することを決め、弟に協力してくれるように頼み込んだ。 弟は兄のために4万5000ドルをかき集め、イギリスの広告代理店S・Hベンソン社を交渉し提携関係を結び、この会社から更に4万5000ドルの資金を出させることまでやってくれた。
弟の多大な協力もあり、アメリカ広告業界のリーディングカンパニーでもあるJ・W・トンプソンの元従業員アンダーソン・ヒューイットが従業員として迎えられ、1948年にヒューイット・オグルビー・ベンソン&メイザー社を設立。
しかし、初期の頃はうまくいかず、設立後数ヶ月で資本を0にしてしまった。
この危機的状況のときJPモルガンの会長が無担保で10万ドルの融資をしてくれ助かった。
(ヒューイット・オグルビー・ベンソン&メイザー社の従業員アンダーソン・ヒューイットのおじがJPモルガンの会長だった)
なんとか食いつなぐことに成功したヒューイット・オグルビー・ベンソン&メイザー社はこの後アンダーソン・ヒューイットがサンオイル社と300万ドルの大口契約をこぎつける。 この仕事からオグルビーのセンスが注目を集めるようになり、ヒューイット・オグルビー・ベンソン&メイザー社は競争相手からぬきんでた存在になっていった。
デビッド・オグルビーはクリエイティブで数々の宣伝文句、手法を打ち出した。 例えばワイシャツメーカーのハザウェイでは当時はあまり使われていなかった写真を使い眼帯をした男性モデルを主人公に見立て宣伝し、ロールスロイスのキャンペーンでは「時速マイルで走行中のロールスロイスの室内で最大の騒音源は電気時計です」など“製品を宣伝のヒーローにしたキャッチコピー”を書き顧客の心をガッチリとつかんだ。
もともと人事や管理がうまくなかったデビッド・オグルビーは経営の面での時間が限られるようになりベンソン・ボウルズ社からエスティ・ストーウェルを副社長として迎え入れ、自分の専門に集中するようになる。
1960年からデビッド・オグルビーは広告業界を変える動きをどんどんおしすすめ、それまで広告料金は15%のコミッション制が当たり前だったものを固定料金制へ変えていった。
1963年には「ある広告人の告白」を出版し50万部を超えるベストセラーをたたき出した。 こうして彼は広告業界の指導者的存在として不動の地位を手に入れた。
1964年、弟が死に、1965年にその弟の勤めていた会社メイザー&クラウザー社と合併することになる。 合併した新会社オグルビー&メイザーは世界で5本の指に入る有数の起業にまで発展した。
1975年、オグルビーはフランスへ帰ることを決めこの会社のクリエイティブ部門のトップを降りた。
1999年7月にクリエイティブの天才はこの世を去った。
デビッド・オグルビーの教え・名言(コピーも含む)
- 家族に読ませたくないような広告はつくるな
- なぜ、25万部の発行物で2万人の潜在顧客をみすみす手放すようなことをどこもかしこもしているのか。見出しを写真の下にレイアウトしさえすればいいのに
- 成功(最大限の費用対効果)へのカギは、広告のあらゆる要素を絶えずテストすることにある
- どういうかより、「何を言うか」のほうが重要
- ほとんどの広告では、「見出しが一番重要」
- 一番効果的な見出しは、相手の「得になる」とアピールするか、「新着情報」を伝えるもの
- 中身のない短い見出しより、「何かをきちんと伝えている長い見出し」のほうが効果的
- 一般的な内容より、「具体的な内容」のほうが信用される
- 短いコピーより、「長いコピー」のほうが説得力がある
- 時速マイルで走行中のロールスロイスの室内で最大の騒音源は電気時計です
- まず、クリエイティブの天才としての名声を獲得する。第2に、自分より優秀なパートナーで周りを固める。3番目に、自分のパートナーにその担当の仕事をすべて任せきる
- 白地に黒
- 偽者のロレックスはみんなをだますが、自分をだますことはできない。
関連書籍
「売る」広告 あらゆるセールスに活かすことができるバイブル |
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この本は、広告業界やWEB関連の仕事をしている人に対して私が読んだ本のなかでも最もオススメしたい重要な本です。 なぜならこの本はオグルビーが人生をかけて発見してきた“買っていただく”ための思考と技が集約されているからです。 新聞広告やチラシ、テレビCMなどあらゆる媒体を使って「売る」ためにはどのような広告を作ればよいかが理詰めされています。さらに“人”との付き合い方や会社の運営の仕方、道徳的価値観なども書き記されています。 この本を読むと、自分の中の情熱に火がつき、しかも売り込みの手法もわかり、社会の秩序をただし、さらにはオグルビー自身も信頼を格上げするというまさに相乗効果を高めるための本だということが理解していただけるでしょう。 |
ある広告人の告白[新版] 「現代広告の父」による広告人のための教科書 |
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デビッド・オグルビー処女作にして大ベストセラー 「現代広告の父」による広告人のための教科書 〈大絶賛の評価:ある購入者の話〉 「広告に携わる人が知っておくべきこと、考えておくべきこと、そして取るべきスタンス、その原理原則がまとめられています。お世辞抜きに広告マン必読の一冊です。 部下や後輩に、かれこれ30冊くらいプレゼントしています。」amazonのレビューより |
ザ・コピーライティング―心の琴線にふれる言葉の法則 |
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オグルビーもイチオシの推薦書 デビッド・オグルビーは、この本の中の一番始め、推薦文で次のように述べています。 「私はこの1つ前の第3版で学んで、コピーを書くことについて今もっている知識のほとんどを身につけた」 (※歴史ある本であり何度も増版されています。) 「この本は間違いなく、いままでで1番役に立つ広告の本である」 「広告を科学する」をテーマにどのような広告がヒット商品を生み出すのかを追求した本になっています。オグルビーの書いた本ではありませんが、コピーを書くための必読書といえるでしょう。 また、オグルビーは、自身の著書「『売る』広告」のなかで度々この本の題名を出し、コピーの書き方についてはジョン・ケープルズの書いた「ザ・コピーライティング」を参考にするべきだと忠告しています。 |
伝説のコピーライティング実践バイブル―史上最も売れる言葉を生み出した男の成功事例269 |
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まだ、読んでいませんが喉から手が出るほどほしいアメリカ広告マーケティング界伝説の書籍 監訳者―神田昌典さんの動画レビューがあるのでクリックしてみてください。 ※こちらもオグルビーの著書ではありません。神田昌典監訳本です |
●この他にも広告コピーの作り方について書かれた名著がたくさんありますので興味があればコチラを一読ください…