アンドリュー・グローブの生涯・名言
インテル初代CEO
項目 | 人物像データ |
---|---|
本名: | グローフ・アンドリューシュ |
特徴: | 優れた決断力・ハンディキャップ(耳)・ユダヤ人 |
得意科目: | 化学工学 |
出身大学: | カリフォルニア大学 |
大学の専攻科目: | 化学工学 |
アンドリュー・グローブの生涯
激動の幼少期
1936年9月2日ハンガリーで生まれる。
このころのハンガリーは第二次世界大戦前で1939年から徐々にアンドリュー・グローブは戦争を経験することになる。
4歳のころ、抗生物質のない当時に小児がかかりやすい伝染病のしょう紅熱にかかり、それが原因でアンドリュー・グローブは耳が聞こえなくなった。
アンドリュー・グローブの一家はユダヤ教信者で、第二次世界大戦中は身分を偽り友人にかくまってもらう日々が続いた。
この友人たちのおかげもあり奇跡的に収容所送りにならずに第二次世界大戦は終焉する。
しかし、1956年にはハンガリー動乱(共産主義国のロシアがハンガリーを侵略)により家族とアンドリュー・グローブは鉄のカーテンで引き離されてしまう。
彼はオーストラリアへ亡命する道を選び、難民支援組織の手を借りてアメリカに移民する。(このとき名前をアンドリュー・グローブと改名)
アメリカ亡命後の学生生活
アメリカには親戚がおり、そこで暮らしながらニューヨークのシティカレッジに入学し、化学工学の分野を首席で卒業した。 さらにその後、カリフォルニア大学バークレー校で博士号をとる。
有名企業へ就職、引き抜き
卒業後アンドリュー・グローブは、トランジスタを開発してノーベル賞を受賞している「ショックレー半導体研究所」から現状にあきたりない研究者たちが抜け出して設立した会社として有名な「フェアチャイルド・セミコンダクタ社」に就職した。
1968年にそのフェアチャイルド・セミコンダクタ社からゴードン・ムーアとボブ・ノイズという二人がアンドリューインテル社を設立しアンドリュー・グローブに声をかける。
インテルは当初、半導体技術を応用した新型コンピュータメモリを開発し実用化を事業計画にしており、日本の日本計算機(ビジコン)からICチップの生産を依頼され活動していた。
このICチップが開発されたとき、インテルは特許権を日本計算機に譲らず、製造・販売の特許を自社で取得した。
社長としての手腕
1979年にアンドリュー・グローブはインテルの社長に就任し、巧みな手腕を発揮する。 CMで有名な「インテル、入ってる?」のキャンペーンで消費者の欲求をあおり、自社製品のブランド化に成功。消費者はインテル製のICが入ったマイクロプロセッサをこぞって買うようになった。
1980年代になるとメモリーのICチップよりマイクロプロセッサを手がけたほうが自社の躍進に有利な時代になり、アンドリュー・グローブはインテルをマイクロプロセッサをメインの会社に切り替える決断を下す。
(これは何千人ものレイオフを決断するという過酷な決断でもあった。)
アンドリュー・グローブの手腕はインテルの製品に欠陥がでたときにも振るわれた。
技術者にしかわからないような欠陥が出たときも、クレーム対応だけでなく大量のリコールを実行し、4億7500万ドルものコストをかけた。
アンドリュー・グローブは1998年にCEOを退任し、取締役会議長として一線を退いた。
彼がCEO時代、インテルの株は24倍にまで大きくなっていたという。
アンドリュー・グローブの名言
- パラノイアだけが生き残る
- 我々は人生の大半の時間を仕事に使っている。仕事が楽しければ、誰でも熱心に働く。仕事が楽しくなるのなら、できることはなんでもするべきだと思う。わたしの一番の大切な仕事は、仕事を楽しくすることだ
- 変化することの意味を経験した社員は、新たな変化にも大きな苦痛なしに再び適応できる。
- 会社を興すことの意味が大切だ。会社を作りたいというのを動機にしてはいけない。自分がどういう仕事をしたいかを先に考えないと、全くあべこべになってしまう
(※パラノイアとは精神病の一種で自分は優れているという強い妄想をもつ人のこと。病的な凝り深さをもつ人のこと。)
関連書籍
インテル戦略転換
僕の起業は亡命から始まった!―アンドリュー・グローブ半生の自伝―