デビッド・パッカードの生涯・名言
HP共同創業者
項目 | 人物像データ |
---|---|
本名: | デビッド・パッカード |
特徴: | 明確な目標管理能力 |
得意科目: | 工学(?) |
出身大学: | スタンフォード大学・マサチューセッツ工科大学 |
大学の専攻科目: | 電気工学 |
デビッド・パッカードの生涯
明確な夢を持ち続けた少年
1912年9月12日、アメリカのコロラド州プエブロに生まれた。
家庭はごく一般の中産階級だった。
幼い頃から科学に興味を持ち、エンジニアになると決めていた。
12歳の時には真空管ラジオを組み立てられるようになり、高校に進学する頃にはアマチュア無線を持っているほどだった。
1930年にスタンフォード大学に入学し、電気工学を専攻した。
この大学で後にパートナーとなるウイリアム・ヒューレットと出会う。
デビッド・パッカードは修士号をとるためマサチューセッツ工科大学にも通った。
温め続けた夢の実現
パッカードは数少ない電子工学専攻学生向けの就職先から1936年に大学に提示されていたGE(ゼネラル・エンジニアリング)を選び出し入社することに。
しかし1938年には故郷のパロアルトに戻り、大学時代からウィリアム・ヒューレットと温めてきた事業計画実行。自分たちの会社を立ち上げることを決め、翌年1939年ヒューレット・パッカードを設立させた。
ヒューレット・パッカードはわずか538ドルの資本金でスタンフォード大学に近接するカリフォルニアのパロアルトという地の車庫で創業された。(このパロアルトの小さな車庫はシリコンバレーの伝説のはじまりといわれている)
もともとの自分たちは他の会社に「発明家」として出向く事業を計画していたのだが、すぐに我慢できなくなり自分たちで発明してその製品を売り出す事業に変わっていった。
二人は減量のための電気ショック機や、便器の自動洗浄用光学検知装置などを次々と開発していった。
初年度から利益が1500ドルを超え、創業2年目の1940にはもっと大きい設備の充実した施設に移ることにした。
苦しい時期を乗り越えて
第二次世界大戦が始まるとウィリアム・ヒューレットが陸軍通信隊に入隊することになり、デビッド・パッカード一人で会社の経営を担った。
戦争中は一人で利益を上げることに成功していたデビッドだったが、戦争が終わりを告げると業績が急落してしまう。
すぐさま戦争を終えたウィリアム・ヒューレットは何人もの優秀なスタッフを雇いいれ戻ってきた。
ヒューレットが戻ってきてからのヒューレット・パッカード社はまたもや右肩上がりの成長をはじめた。
この頃から、二人は役割分担を決め、デビッド・パッカードが経営を、ウィリアム・ヒューレットが研究開発を、という部門を専門的に推し進めるようになっていく。
HPウェイの真骨頂!
これまで、経営者としての専門性の無かったデビッド・パッカードは当時の経営では有り得ない方法をとった。
これまでの経営といえば、経営者は従業員とは一線を置いた存在で、豪華な食事を食べ、ふんぞり返っているような人ばかりだった。
しかしながらデビッド・パッカードは従業員と積極的に話をし、社内を歩き回り、スタッフの声を反映させる経営手法をとったのだ。
1970年にアメリカは大恐慌に見舞われたとき、他の多くの会社が多くのレイオフをだした。
そんななか、ヒューレット・パッカード社デビッド・パッカードは、従業員と話し合い、勤務パターンを変え、経営者も従業員も一律10パーセントの給与削減に合意することによってレイオフをださずにこの厳しい時代を乗り切ることに成功している。
さらにヒューレット・パッカード社は、1980年代からコンピュータ事業に参入しアメリカで5本の指に入る地位を確立させた。
慈善家としての活動
このころかデビッド・パッカードは夫婦で積極的に慈善事業に力を入れるようになり、「モントレー湾水族館財団」(この財団では娘が代表者になった)、モントレー湾水族館研究所の寄付、「デビッド&ルシル財団」(ルシルは奥さんの名前)などをつくっている。
デビッド・パッカードは1996年3月26日まで自分の会社のことを考えながら生きた。
デビッド・パッカードの名言
- もし自分の才能や能力を最高に発揮できるようなチャンスが与えられれば、社員はみなもっと仕事ができるはずだ。
- (HPの目標の一つは)個人一人ひとりの仕事に対する士気、意欲、創造力、そして、決められた目的や目標に向かってはたらくときの裁量の幅を広くするような自由な雰囲気を育むような、そんな組織の環境を維持することだ。
デビッド・パッカード関連書籍
HPウェイ[増補版]
HPウェイ - シリコンバレーの夜明け (日経ビジネス人文庫)