セオドア・ニュートン・ヴェールの人生・名言

AT&T社長

彼のおかげで電話とメールがある

項目人物像データ
本名:セオドア・ニュートン・ヴェール
特徴:負けず嫌い・一生懸命
得意科目:医学・電信技術
出身大学:なし
大学の専攻科目:なし

セオドア・ニュートン・ヴェールの人生

身近にいる良き師から学ぶ少年

1845年7月16日、アメリカ合衆国オハイオ州キャロル郡で生まれた。
クエーカーと呼ばれるキリスト友会の家系の父とオランダ人の母の間に生まれ、一時的にこの土地に住んでいたときの子供だった。
1847年、セオドア・ニュートン・ヴェールが2歳の頃、実家にあたるニュージャージー州に戻っている。
この頃、従兄弟に医学と電信について教えてもらっている。
従兄弟のアルフレッド・ヴェールはモールス信号を考案したモールスとともに電信実験をおこなっていた人物である。

自分の頭で考え行動する主体性

1866年、アイオアの農場に移転することになる。
じっとしていることが嫌いなセオドア・ニュートンヴェールは農場になじむことができず、ユニオンパシフィック鉄道の貨車に乗務する通信士の職に就くことを決めた。
ここでもただ単に乗務しているだけの通信士に耐えられなくなり、鉄道による郵便輸送の部署に移る。
当時の鉄道の郵便輸送は、輸送物の仕分け、輸送経路、輸送列車同士の連絡等なにからなにまで全くシステム化されておらず作業が面倒くさく、混乱していた。
そこでセオドア・ニュートン・ヴェールは鉄道の運行時刻表と列車間の連絡を徹底的に調べ上げ地域内の効率のよい郵便業務の手引き書を作り上げた。

上からの圧力にも立ち向かう姿勢

郵便業務の効率がよくなったことでセオドア・ニュートン・ヴェールの名はアメリカ政府の耳に届くまでになった。
アメリカ政府は彼をワシントンに召喚し、全国規模の郵便業務の手引書を作るように要請する。
この活躍によってたちまち1874年6月に郵便業務担当の次席監督官になり、2年後の2月には監督官に昇進した。
セオドア・ニュートン・ヴェールはこれまでで最も若い役員ということになり社内の政治的な動きを痛感することになる。
鉄道会社の郵便配達業務を見直すということは、ある部署では収益に影響が出てしまう事が想定され圧力がかかったのだ。
しかし、セオドア・ニュートン・ヴェールは屈せず最後まで業務を遂行した。

電話技術を広めたいという熱い想い

この仕事ぶりはまたもや注目を浴びることになる。
電話技術を開発したアレキサンダー・グラハム・ベルの義父であり、郵政省の政治的業務に反対していた起業家、ガーディナー・ハバードの目に留まったのである。
この頃、電話技術は「アメリカの最新型ペテン」とののしられ、世間から認められていなかった。
そこで偉業を成し遂げた不屈の精神をもつセオドア・ニュートン・ヴェールの力を借りて電話技術のすばらしさを人々にわかってもらいたいと考えたのだ。

電話普及のためにタダで働くヴェール

1878年、セオドア・ニュートン・ヴェールは発足したばかりのベル電話会社のゼネラルマネジャーに就任した。
郵便事業での彼の給与は3500ドルあったが、新しい職では自らほとんど無給で働いた。
セオドア・ニュートン・ヴェールには電話を全国に普及させるビジョンが出来上がっており、持てるエネルギーと情熱を全て注ぎ込んだ。
1882年、以前にアレキサンダー・グラハム・ベルから電話の特許をとったとして電話市場に参入したといっている電気機器会社ウエスタン・エレクトリック社を買収した。
1885年には起業グループを完全統合し、AT&T(アメリカ電話電信会社)として再スタートする。
あるとき競争相手のウエスタンユニオン社からセオドア・ニュートン・ヴェールへの強力なオファーがあったが、セオドアは自社の電話網を全国くまなく張り巡らせるため断固拒否した。

社長業を引退しても働き続ける

1887年、町という町に電話網は張り巡らされ、セオドア・ニュートン・ヴェールはバーモントに200エーカーの農場を購入し引退した。
農場経営に入る前に南アメリカを旅行し、ロンドンにオフィスを構え、フランス・イタリアで生活し、多くの都市に街灯や電話装置を設置してまわった。
農場に落ち着くと、エネルギーを農場経営に集中させた。
たちまち200エーカーの農場は6000エーカーにまで急成長した。

AT&Tのピンチにかけつける!

1907年になると経済が不況に陥り、AT&Tも打撃を受けるようになる。
どうしようもなくなったAT&Tのディレクターは頼みの綱とセオドア・ニュートン・ヴェールに同社の救済に手を貸しほしいと依頼する。
セオドア・ニュートン・ヴェールはこの要請に快く応じ、早急に動いた。
株価は低迷し、銀行が融資を引き上げ貸し渋るなか、どこからともなく2100万ドルを調達し競合企業を買収。
さらに「一つのシステム、一つの方針、普遍的なサービス」というスローガンを打ちたてキャンペーンを展開。
定期的な監査も受け入れ、政府側にも正々堂々とアピールした。
社内でも疾病や事故にたいする保障や年金を引き上げ、従業員のやる気を向上させた。
これらの政策のおかげでAT&T社は危機的状態から電話通信業界での絶対的な支配的な力を持つまでに成長した。

メールの未来を切り開くために

この後70歳になったセオドア・ニュートン・ヴェールは1910年に以前オファーがあったウエスタンユニオン電信会社の経営権を3000万ドルで買い、“通信線経由で遠くに送れる手紙”を普及させようとビジョンを定め、実行に移した。
このときばかりは司法省が介入してきて電信と電話の連携を禁止するという圧力に負けてしまった。
ウエスタンユニオンは売却させられ、AT&Tの企業買収も禁止されてしまう。
1920年4月16日に彼は亡くなることになるが、人生を最後まで謳歌し、現在でも彼が広めた通信技術は必須のものとして生き続けている。

・セオドア・ニュートン・ヴェール名言集

  • 一つのシステム、1つの方針、そして普遍的なサービス
  • 3500ドルの給料を返上して、無給の職に就いた。
  • 実際の困難は克服することができる。克服することができないのは、心に描いた困難だけである。

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